● 生活が質素だった大正時代の上品さ
この数年来の「断捨離」や「ミニマリスト」等の「モノとのしがらみを断つ」提唱(blog No.174)は,蒐集癖が半端ではない私(富山)には,ノーマルに近づく手立てとして,相当の成果はあったのです。が,寧ろ「部屋を使いこなしているぞ感」(blog No.187)のある日常からカケ離れない程度の生活を望むようになりました。また,提唱者らの「ときめかないモノを手放す」(blog No.183)教えに,そもそも私は,生活に潤いを与えてくれる,ときめくモノを所有しているだろうか? と考えるようにもなりました。
断捨離を生活スタイル刷新の第一歩とするなら,第二段階は「大切なものと丁寧に暮らす」(blog No.194)人生への考え方でした。が,ここに来て,衝撃的な本に出会いました。物が豊かな時代のセレクト思考ではなく,質素だった時代の上品さの追究の立ち位置です。
それが『モダンガールのスゝメ』,作者・淺井カヨ氏は,もちろん現代人ですが「モガ」です。モダンガールと言えば,映画『この世界の片隅に』(2016年)では,主人公・すずが義姉の保管していた大正時代の超先駆的な洋装に対し「モガだったんですね」と語るシーンが思い起こされます。
作者のモガ化は,小学校の頃に訪れた博物館明治村(愛知県犬山市)がきっかけだったようです。幼い頃から昔の建物に強い興味のあった彼女は「使い込まれて軋み音がする床に,木枠の窓で表面が波打つ硝子,そこに夕日が射す光景,色とりどりの朝顔が咲いた樣な澤山の古い蓄音機,木の濕湿った匂ひ,柱時計の音」(p.02,原文:旧漢字を使用とは徹底してますな。以下,引用は同様),その世界観への心酔が,大人になるにつれ「格好だけではなく,大正から昭和初期にかけてのあらゆることを,何でも知りたい」(p.06)となり,やがて不動産店に「町で一番古い物件を紹介してほしい」と「生活の全てが実践」へと爆発!
「生活に當時のことを取り入れた話」(p.07)を綴ったのが本書です。
● 生活それ自体を大正末期〜昭和初期に当てはめる
實際に昔へ行くことは叶ひませんから,
殘ってゐる實物やら資料から
少しでも生活を追軆験しようとしてゐるのです。
休日や外出時だけの趣味でなく,
生活それ自軆を全て
それに當てはめるといふことをしてゐます。
その生活は,私の身軆にとても
合つてゐることがわかりました。(ジャケット見返しより)
● 現代のモガとモボの建てた家
作者は「當時に近附きたい!」一心から,古い文献やら,もう百歳の方への取材まで,徹底的にアプローチした姿が,たくさんの掲載史料から窺えます。「大正の人々と對話する氣分で資料を探し」(p.87)た史料は,本書の中では,モダン洋装(洋装,髪型,化粧,美容)の記述が多くを占めますが,口絵には「わたくしの下宿の樣子と實際に使用してゐる生活道具です」が紹介され,最終章(第四章)では「暮らしの實際」として,住居・道具論となっています ── 此処こそが私の注目箇所でした。作者は「今は餘り無い道具をなるべく試す様にしてゐます」(p.106)と,なんと氷を用いて冷やす冷蔵庫(電機ではない)や,調理にテンピ(=蒸し焼き器。電車レンジに非ず)や火鉢を使う生活を愉しんでいるようですが・・・この凝りようは怖いほどに凄すぎです。
で,最後から10頁ほど,興味深い節が現れます ──「モダンボーイを見附ける」です。「この樣な生き方を理解してくれる異性は現れないかもしれません」(p.122)と諦めていた彼女に,同じような生き方をしてきた男性が・・・。
そして最終節は ──「結婚することが決まり,新居をどうするかといふ話になって,家を新しく建てることにしました」(p.126)。さて,もう,お分かりですね,現代のモガとモボの建てた家は・・・・・「昭和初期に建造された和洋折衷の小住宅を,大いに參考とした家」(p.126)でした。
『モダンガールのスゝメ』(淺井カヨ,原書房,2016年)1600円+税
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● 住まいはエネルギーの器
ついつい,この前まで30歳台,そして40歳台だった筈なのに,あれま! という間に「アラ還」(=間もなく還暦の60歳)になっていた私,この年齢になってこそシンクロする書物もあります。
最近の私は,昔の自分からすると想定外ですが「便利なものを求めない,一見すると不便な所作を愉しむ」風にあります。昔の手間のかかる道具など,とっても合理的だったりするのも実感しています。
本書は,前回ブログで記した『シンプルだから,贅沢』(blog No.194)のドミニック・ローホー女史による姉妹書です。前書が,安らぎの空間で,大切なものと丁寧に暮らす「道具論」だったのに対し,今回は「どのような住まいが私たちの『人生の質』をあげるのかお伝えしたくて記しました」(p.05)とイントロに示されるように「住宅論」です。おっと,それは「お宅訪問」のような大邸宅ではありません。第1章からして「『小さな住まい』という贅沢」と誘っています。
● 見かけは小さくて簡素,でも粋な現代の庵
作者は「蛹(さなぎ)」とも「庵(いおり)」とも表現していますが,小さめの家で自分の贅沢な時間をゆっくりとくつろぐ生活への再考を終始,促しています。振り返って,私たち多くの庶民が望む家のイメージは,TV-CMに映される「広くて美しい家」の光景 ── 「マイホームローンを組んで購入し,長い年月をかけて返済」していきますが,もう既に精一杯! それでは「ほがらかに暮らす」(p.167)余裕が持てないじゃありませんか。
私たちには「小さい」=「みすぼらしい」のイメージが根強いかもしれませんが,作者は頁の所々で曰く「素朴で,上質なもののみが置かれ」(p.97),小さいからこそ「遮音効果・断熱効果も高く,空気流通システムおよび防犯システム」(p.94)が取り付けられ,そして「人間の健康と住み心地を十分に考慮した住まい」(p.98)・・・などなど。
「コンパクト感,効率の良さ,洗練されたデザイン,あるいはオリジナリティー,そして何よりも完璧なできばえから『珠玉の作品』と呼べる家々もあるのです」(p.91)と。こうも続きます「見かけは小さくて簡素,でも粋でトレンディな家,これが今後数十年,建築分野をリードする住まいのかたちになるのではないでしょうか」(p.101)。大型書店の暮らし関係コーナーを丹念に診ると,今や「小さく暮らす」関連の本はたくさん見つけられます。
● 自分の人生のオーナーになる
彼女のメッセージで興味深いのは,前掲書もそうですが,外国人ながら,日本文化の復興に触れている点です。今回も「谷崎潤一郎の著書『陰翳礼讃』を,ぜひもう一度手にとってみてください」(p.110)と。「日本に息づくシンプルな美に学ぶ」(p.107)住まいの設え(しつらえ)再発見と,日常への取り込みをいざなっています。
「自分の人生のオーナーになる」(p.51) ── 暮らしでの孤独をポジティブに捉えましょう,の文脈の中で出てきたフレーズですが,読者の私としては居心地を左右する家こそは,上質の建材(イミテーション=○○仕上げ風のビニール内装壁紙,木目調の塩ビ建材,ビズ留めのレンガ風外壁板,・・・で誤魔化さない贅沢)が必要では・・・と,勝手に読み解きました。それにはお金がかかるのでは・・・,いいえ,小さい「庵」だからこそ実現可能ですよね。「住まいは広さではなく,居心地がよいかどうかが重要ということを忘れないでいてください」(p.36)。読み終えて気づいたのですが,本書には「魂を満たす小さな暮らし方」とサブタイトルが付いていました。
本書の最終章は,ほぼ「終の棲家(ついのすみか)」についてです。「高齢者の生活には,住まいが狭ければ狭いほどよいと私は思います。(中略)家の維持も簡単にし,光熱費や固定資産税の無駄を省く」(p.230-231)のだそうです。まだピンと来ない私ですが,やがてすぐに高齢者と呼ばれる層の仲間に入るのでありましょう。
『屋根ひとつ お茶一杯』(ドミニック・ローホー,原 秋子 訳,講談社,2015年)1200円
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● シンプルだから,贅沢
「部屋に何もないのがシンプルなのではありません」(p.95)。
「断捨離」を通り越し,さらに「ミニマリスト」なる何も持たないライフスタイルが注目されています。3年ほど前のリハウスを機に,家財等の2/3を処分した私ですが,しかし,生活感がないと落ち着かない私にはミニマリストは無理と悟ったのは2年ほど前です。
そんな折,たまたま駅の売店で購入したのが『シンプルだから,贅沢』,出張からの帰路に読み終えたものの,この半年ほど今度は寝る前に少しづつ読み返しています。根底に流れている思想は「粋である」(p.52)生活の勧め。日本的な考え方でしょうが,筆者はフランス人のドミニック・ホーロー女史,彼女は日本の「禅」「茶道の作法」に魅せられ,学び,日本文化の「シンプルだから,贅沢」を私たちに再発見させてくれます。
ちょうど自分の心境「時が経つほどに美しくなるもの」(p.121)への憧れと重なり,大袈裟ですが生活スタイルを再考する座右の銘となっています。物質的ともとれる「断捨離」や,これまでの「ミニマリスト」とは一味違い,本当の贅沢を味わうために「大切なものと丁寧に暮らす」(p.213)人生を提唱しています。
● 日常にうるおいをもたらす贅沢(p.84)
本書の最初の頁には「贅沢とシンプル,このふたつの価値観は,どの時代においても相反するものとされてきました。でもどうでしょう。生活がシンプルになればなるほど,その生活は,『贅沢なもの』と感じられるのではないでしょうか」(p.3)の問いかけ。縁あって,この本を手にした人なら共鳴する考え方ではないでしょうか。
作者は,贅沢を現代風に呼び変えたものが「こだわり」(p.81)と解しています。そして日々に「うるおい」(p.83)を与え「ご機嫌になれる」(p.87)日常の「くつろぎ」(p.95)スタイルとも。
いくつかの事例が紹介されています。鏤められているメッセージを本文中から抽出しますと ──
1)住まいは,小さくシンプルに(→ 何も無いのがシンプルではなく,お気に入りのものを配した空間)。
2)上質なものと暮らすと,よりシンプルになれる(→ 自ずから「多く」より「少なく」なる)。
3)数少ない所持品こそ最高の品質を求める(→ 上質なものは私たちを癒してくれる)。
但し,賢く贅沢に消費「お金の奴隷にならないこと,借金を作らないこと,そして必要最低限の生活が保証された老後」(p.70)。
● 安らぎの空間で,大切なものと丁寧に暮らす
「少ないお金でも,私たちは洗練された上質な生活が送れるのです」(p.71)と説きつつも,前述のように作者は「数少ない所持品だからこそ最高の品質を求める」(p.143)生活を勧めています。それは「『心地よさ』という尺度が贅沢の大きな基準」(p.145)に理由があるようです。
作者の宝物の一つ「急須」(=高価なものではないがお気に入り)を例に出し,決して高級ブランドが高品質とは限らないと述べた上で,所持品に関し随所に述べられている提唱は ──
1)多くの服を持つより数点だけに絞り,上質な素材を身に着ける。
2)プラスチック製と違い,使い込むほどに艶が出るもの(→ 漆器,ヒノキ風呂,コショウの木の俎板など)。
3)職人技に触れると自分まで豊かに(→ 革製品,柘植の櫛,竹簾,布団など)。
読者の私,若い時分にはスーパーマーケットの「より安く」「使い捨て」志向こそがシンプルなライフスタイルと盲信していたものです。つい少し前まで「忙しい」時間を送るのが充実した生活とも捉えていました。作者曰く「生活のテンポが速くなることに,私たちはあまりにも無抵抗すぎます」(p.175),安らぎの空間で,大切なものと,至福の時間を,丁寧に過ごしたい,と考えるようになった私もアラ還(=もうすぐ還暦)の世代です。いろいろ思うところが出てきました。
昔〜に読んでいれば・・・など通用しません。この年齢になったからこそ,読み応えを感じるようになったんだろうな! と思っております。私と同世代の方へ,お薦めの本です。
『シンプルだから,贅沢』(ドミニック・ローホー,原 秋子 訳,講談社,2016年)1200円
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26年後,後悔しないために
「フランス86年,ドイツ79年,日本26年。なんの数字かわかるでしょうか?」から本文は始まります。
実は,同じ内容のメッセージは『間違いだらけの「日本」の家づくり』(blog.No.188)でも発されています。住宅の寿命の話です。「一生の買い物であるはずだった家が,26年しかもたない」(p.13)── そんなはずは・・・あるのです,国土交通省の試算です。
なんでそんな事態になるのかは,思い当たりますよね。「住み続けると少しずつ痛んできます」(p.11)── えっ,だったら欧米も同じでは・・・,いいえ「日本の家は,見栄えだけがいい化学製品でつくられています」(p.23),フラットな仕上がりのビニールクロスの内壁,薄っぺらなタイル調のサイディングとスレート瓦,合板の上に木肌風印刷の塩ビ製シートを貼り合わせた合板のドア,自然木に似せた合板や大理石のように見えるシート・・・,どれも仕上がりこそ綺麗です。
「完成した瞬間がいちばん美しい家。これが日本の住宅です」(p.24)
作者の松岡浩正氏は「なぜ日本の住宅の寿命がこんなに短いのかと突きつめていくうち,大事なことに気づきました」として「美しくないから,壊されるのです。そして美しくない理由は,工場で大量生産される化学建材を使っているからです」(p.24)と続けています。
あれっ,仕上がりが綺麗だったら美しいのでは・・・と思うところですが,決定打は ──「日本の住宅に欠けているのは,年月がたっても人から大切に扱われる美しさ」(p.30),簡単にメンテナンスできない化学建材があまりにも多く使用されている日本の住宅は「時間が経つとどんどん汚さを増し,安っぽくなっていきます」(p.29),経年美・愛着は得られませんよね。
読者の私は若い頃,TV-CMでカッコよく映るハウスメーカーの,この見栄えのいい綺麗な家に惹かれたものです。一方で,モルタル塗り外壁や漆喰や砂の内装は,なんだか古臭くダサく感じました。アラ還(=まもなく還暦)の年齢になって,遅ればせながらも,本物の質感の風合いと,経年美の味わいが分かってきた私です。
工場生産による住宅の量産化が求められていた時代ならともかく,作者いはく「量的需要が満たされた現在,工業化された住宅は必要でしょうか?」(p.15)と。言い得て妙です。
家は将来,大量のゴミとなる
冒頭に書いたように,この本のメッセージは加藤伯欧 著『間違いだらけの「日本」の家づくり』と殆ど構成が同じです。様々な想いから,住宅会社を設立した動機も似ています。ヨーロッパに,住宅の範を見つけようとしたのも同じです。今回の松岡氏が行き着いたのは(加藤氏の南フランスではなく)ドイツであった点が違いでしょうか。
環境建築人・代表を自認する松岡氏の場合,さらに,新築当初のコストを下げるために「化学建材や石油製品でつくられた日本の住宅に,私たちつくり手はどれだけ責任をもてるでしょうか」(p.96),長持ちしない「産業廃棄物となるような化学建材をたくさん使った家であれば,廃棄時に環境に負担をかける」(p.2)と,次世代へ渡す環境への警鐘も鳴らしています。
本書の真ん中より後ろは『私たちのこだわり』を主眼にしたECO HOUSE株式会社の社是と具体的な施工方法が書かれている会社案内となっています。ここまで紹介の前半部分「日本の家づくりの問題点」は,今,工場で大量生産される化学建材にまみれたハウスメーカーでの家づくりを考えている人に読んでもらいたい内容ですね。でも,家を建てる世代って,素材とかより建築当初のコストを一番に意識する若い層なんですよね〜! 子育ても終え,もう大きな家はいらないとする年齢層が,小さな家を建てる文化に変わっていくと状況は変わっていくのかもしれません,『60歳で家を建てる』(blog No.187)のように・・・。
『世界基準の家づくり』(松岡浩正,現代書林,2011年)1500円
● 30年前からのメッセージ
かれこれ30年来のマイルールとして,本の見返しに購入年月日を記しています。『なぜトイレにドアがあるんだろう』には「31 AUG 1987」のスタンプがありますので,ちょうど30年前に入手した本です。書名からして,少し衝撃的です。
東陶機器(現 TOTO)は,1987年に創立70周年を迎えました ── となると,今年は100周年になりますね ── 当時,記念事業として「水まわりを中心に,近未来の快適な生活空間をつくってみよう」(p.01)とするプロジェクト 『アクア-ヒューマニア ’87』が企画されました。入社1年目のデザイナーから勤続20年の技術者まで,課を超えた全17名が結集されたチーム,その提案エッセンスを「どなたにも楽しく読んでいただけるように」(p.03)書かれた一般向けの書籍です。
私が社会人になりたての頃に購入し,今も持っている本の一つです。提唱されている「なぜトイレにドアがあるのだろう?」は,以来,私の住宅観に相当の影響を与えてくれました。
●「おしりだって,洗ってほしい」
衛生陶器は生活に密着しているとはいえ,かつては地味な産業だったように思い起こします。TOTOは1982年に,シャワートイレの広告「おしりだって,洗ってほしい」で一躍注目を集めた企業でした。TV-CMで女優・戸川 純から発せられたコピーは当時の流行語にもなりました(https://www.youtube.com/watch?v=858Dn5I5hLo)。この『ウォシュレット』登場は,水まわりの住空間を提案するTOTOの企業イメージを優勢に決定づけた出来事だったと記憶します。
ウォシュレット広告(1982年) 70周年 新聞広告 第4弾(1987年)
70周年記念事業を1年後に控えた1986年6月,プロジェクトに課せられたのは,展示会『アクア-ヒューマニア ’87』での展示製品は「モデルでもパネルでもなく,すべての機能を実際に作動させて提案」(p.32),しかも「三年後か,五年後に実現できるもの」(p.168)という条件下での「こういう暮らしがしてみたい」近未来のプレゼンテーション。
●「パーソナルルームのトイレにドアはいらない」(p.112)
メンバーは,水まわりを中心とした住空間に関し,本書によると次の5つのシーンを柱として掲げたようです。
? 公共の場における女性向けの新しいトイレのあり方
? マンションにおける合理的・効果的な空間構成のあり方
? 一般住宅における高い利便性と快適性
? シティホテルを利用するビジネスマンの客室
? オフィスにおけるリフレッシュ空間の新しい方向性
このカテゴリー?で登場するのが,書名の基となった「パーソナルルームのトイレにドアはいらない」の項目です。
「プライベートルームなんだからドアはいらないんじゃないか。だいたい一人で家にいるとき,トイレのドアを閉めて用を足す人は少ない。だったらドアをとってしまおう」(p.116)── この真偽は世間の傾向としてクエスチョンながら,当時,妙に納得したものです,わたしゃ。
ですが,本書は「〜ということになったがちょっと待て」と続きます ── 部屋にトイレを持ち込む発想ではなく「トイレに部屋を持ち込めばいいのだ」と ──「収納型の手洗器やテレビを組み入れ,電話を置いた。(中略)小型冷蔵庫や食器をおいてもかまわないが,それはまあ,お好みしだいというところ」(p.119)。ここまで来ると,私も引いた!
他に「リビングにバスがあってもいいじゃないか」(p.97)もあり,現今,実験住宅で散見される提案も載っています。
これらの提案から30年の歳月が流れました。書名でもある「なぜトイレにドアがあるのだろう」は,一般化しなかったように思いますが,5つのシーンの内の幾つかは,普及したり,後に人気商品となったものの今では消えた商品もあります。
昭和からの提案書,時を経て,読むのも愉しいものです。
『なぜトイレにドアがあるんだろう』
(TOTOアクア-ヒューマニア ’87プロジェクトチーム,現代書林,1987年)1100円(当時,消費税は未導入)
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● 実際,家って,もっと小さくていいと思う(p.18)
書名は簡潔な『スモールハウス』で,スモールの波に乗り遅れている住宅(p.18)を見直してみよう! がテーマです。「お金がないから小さな家に住む,裏を返せば,お金さえあれば大きな家に住む」(p.14)の?
作者・高村友也氏もスモールハウス生活している実践者ですが,経済の富国アメリカの先駆者を取材しつつ「スモールハウスに納まるくらいの所有物で生活する」(p.69)豊かな生き方への提唱が詰まっています。で,このスモールの度合いですが,読者の私は,以前に紹介した『9坪の家』(blog No.186)(正確な規模は1階が9坪,2階が6坪の床面積15坪(要は約50?))あたりが適度だろうな,と考えるところです。
ところが,本書のサブタイトルは,何と目を疑う「3坪で手に入れるシンプルで自由な生き方」と来ました。3坪とは畳6枚分の約10?の延べ床面積,私は,ここまでは絞れないな,とも。
● やっぱり,家って大きすぎるんじゃないだろうか(p.98)
「僕らには,禅や茶道,近年の断破離ブームにも見られるような,シンプルなものに美しさを見出す精神的気質がある」(p.22)指摘には,何やら惹かれる気持ちはあります。
でも,やはり後半あとがきには,スモールハウスは「熱心な支持者もいる一方で,メディアの反応を見ている限り,恐いもの見たさ,珍しいもの見たさが半分入り混じっており,まだまだれっきとした市民権を獲得しているとは言い難く,いわば胎動期にある」(p.207)と作者自身にも消極論が見え隠れしています。
作者の提唱ともエッセイとも取れる文章を読みつつ,10?が適切か? はさておき,作者の住宅哲学には共鳴する呟きが多いのです。「贅沢と言えば,貴金属や,ブランド物の靴やバッグ,家電製品なんかを思い浮かべるかもしれないが,費やされている労働と資源の量からして,家は桁が違う」(p.140)と。確かに家は大きすぎるのだろうし,とんでもなく高額で,よって「生涯賃金を2億円と考えれば,その3分の1に及ぶ。一体,どうしてみんな,こんな状況に甘んじてるんだろう」(p.19)── 確かに,確かに。
● 今「小さな家」が注目されている(p.9)
実は,広義のスモールハウスムーブメントは「大きな家は必要ない」「小さくシンプルに暮らす」を指す社会現象と作者自身も冒頭で述べています。3坪前後の極端に小さな家は,その象徴に過ぎないようです。
日本の住宅(持ち家,戸建て)の延べ床面積は2011年で126?(国土交通省)とか。需要のボリュームゾーンは子育て世代です。一方,数年後には半数以上になるのが「おひとりさま」と「おふたりさま」世帯です。ならば,家の大きさの固定観念から脱皮する拠り所として「『スモール』は元来,日本のお家芸」(p.20)に回帰できないものか・・・。
「貧しい時代,貧しい国では,何であれとりあえず蓄えておこうという本能が働く」(p.62)のですが,平和で安定した社会では「食料を大量に蓄えておくよりも,新鮮なものをスーパーに買いに行ったほうがいい」(p.62)考え方があります。街の至る所にコンビニやファミレスがある現今,究極は目指さないまでも,今の大きさの半分レヴェルの家を普通に考えるトレンドが来てもよさそうに思ったのが,本書の読後感でした。
『スモールハウス ── 3坪で手に入れるシンプルで自由な生き方』
(高村友也,同文館出版,2012年)1400円
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● 時期尚早だった『「捨てる!」技術』
大ブームとなった『断捨離』(やましたひでこ著)が2009年刊行ですから,この辰巳 渚『「捨てる!」技術』は,それよりずっ〜と前に提唱されています。
私の購入は17年前で,初版も同じく2000年です。作者も「完璧を目指さない」(p.110)とする緩やかな「『捨てる』作業によってモノの価値を検討する」(p.6)生活スタイルの提唱で,後発の「断捨離」ほどのインパクトと徹底さはありませんが,当時,噛み付いたのがジャーナリスト立花 隆氏でした。
1965年生まれの作者は当時35歳,当ベストセラーで知られるようになった新人です。巨匠・立花先生は,その後『僕が読んだ面白い本・ダメな本 そして 僕の大量読書術.驚異の速読術』なる超長〜いタイトルの単行本を出しますが,その中で「『「捨てる!」技術』を一刀両断する」と章建てまでしての徹底ぶり。何ともお疲れ様です。
現今,書店では「ミニマリスト」の生活スタイル関連がコーナー化されるほどですが,立花先生はどう見ているのでしょう,この潮流を・・・。
● 収納法ではモノは片づかない(辰巳,p.95)
生活スタイルの一つの提唱ですから,採り入れるか否かは,個々人の裁量です ──「私はこの本を全く評価しない,ほとんどカスみたいな本だと思っている。「捨てる技術」を使うなら,まっ先に捨ててしかるべき本だと思う」(立花,p.374)まで言い出す始末。巨匠ともある御仁,ここまで攻撃する〜!?
「女性が日用品について信奉したくなる『収納法』,男性が書類や資料について信奉したくなる『整理法』」(辰巳,p.85)── 確かに,確かに・・・。
当書を購入時,人一倍の蒐集癖があり「捨てる」発想が皆無だった私も,その後の「断捨離」教に少なからず影響を受け,今はモノを買わない生活を目指しています。17年を経た再読で「モノが多いから収納法・整理法が必要になるのだと考えよう。モノを減らせば方法論に頼るまでもまでもなくなってくるはずだ」(辰巳,p.92)のフレーズに強烈に共鳴する私。
整理術が載っている雑誌類には急に興味が無くなってしまった私。
極論でしょうが,そもそも家に収納スペースって必要なんだろうか? とも思うようになった私。
建築家・宮脇 檀の声を引用している次の箇所も興味深い ──「そういう部分(押入や納戸)をたくさんつくればよい設計だと喜ばれるのは経験上分かっています。けれど,いくらたくさん収納を作っても,そこは後から後から買い込まれるモノたちですぐに一杯になるだけだ,ということも私たちは同時に知っています」(宮脇 檀『男と女の家』)。
● 暮らし方を作り直す
今,改めて紐解きますと,当時は作者自身が若いので,そこまで達観していたかは分かりませんが,主張内容の哲学は「捨てる」技術にあった訳ではないように感じます。
「持っているモノはどんどん使おう。逆に、使わないモノは持つのをやめよう」(辰巳,p.83)。
「身のまわりにあるモノの山を『捨てる』ことか始めて,暮らし方を作り直す」(辰巳,p.220)。
「のんびり自分らしくくつろげる家に暮らしている人はどのくらいいるのか」(辰巳,p.221)。
アッという間にアラ還(=間もなく還暦)となった今,暮らし,住宅,道具の在り方,シンプルな生活の良さを志向する考え方への余裕が私にも湧いて来ました(遅!)。
『「捨てる!」技術』(辰巳 渚,宝島社新書,2000年)680円(当時)
『僕が読んだ面白い本・ダメな本そして僕の大量読書術・驚異の速読術』(立花 隆,文藝春秋,2001年)1714円
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成毛氏の提唱する「面陳」ディスプレイで撮影
● 本棚は本の収納場所ではない
永年,既製品に満足できなかった読者の私,数年前に,持っている本の量とサイズに合せ壁2面で天井高の本棚を特注したのですが,すぐに一杯に。成毛 眞氏は「本が見にくい本棚は機能しない」(p.15)とし「勇気と決断力を持って,本棚に入れる本と入れない本の選抜をしてもらいたい」(p.16)そして「2割は空けておく。新しい本を入れるスペースは常に用意」(p.82)を,理想の本棚の条件に挙げています。
冷蔵庫にルールがあるのに対して「この本が本棚からなくなったら代わりにこれを入れるといったように,鮮度や回転といった考えがない」(p.3)とも。そうなんですよね,確かに「本棚は本の収納場所ではない。読みたい本をすぐに手に取るためのシステム」(p.50)なんですよね。
● 本棚は新陳代謝を繰り返さねば意味がない
「買う本の量をセーブするのは愚かな人間のすること」(p.14),「自分に投資をすべく『迷ったら買う』」(p.150)を原則とする成毛氏ですから,読んだ本をどうするかは頭を悩ませ続けた問題だったようです。
成毛氏が辿り着いた,新陳代謝の仕組みを適えるのは『必要な本棚は3つ』ルール,本書の大半を占める第2章(p.55〜142)で語られています。
(1)新鮮な本題・・・受け入れる本を制限しないオープンな本棚で「これから読む本,今読んでいる本を置く場所」(p.57)。書店の「平台」の位置づけ。
(2)メインの本棚・・・(1)の読後に選抜された本が入り,背表紙のタイトルも見えるようにする。面陳(=表紙を見せる並べ方,書店用語)をすると,その本棚のテーマがはっきりと見える。
(3)タワーの本棚・・・他の本とは別に扱うべき辞書,事典,ネタ帳の本のスペースで,成毛氏は場所を取らないタワー型の本棚(blog 番外編.01)を採用しているから名付けたようです。
(番外編)神棚・・・絶対に捨てたくないのに「メインの本棚」に入りきれない,人生に影響を与えてくれた本,励まされた本,癒してくれた本たちで,特別な本棚に祀る。とは言いながら,成毛氏は「トイレなどに場所を確保するとよいだろう」(p.109)だそうです。「神棚」じゃなくて,文字通り「紙棚」ですけど,神聖な場所に納得です。
本棚の新陳代謝は(1)→(2)の原則で守られるようです。
「神棚」本の在り方は,これまで考えたことのないジャンルでした。
● 小物を飾ってイマジネーションを生む
私の場合,棚の手前に日常の小物を置いてしまうのですが,単にスペースの利用です。成毛氏は「自分の本棚は,いつも見ていたいと思えるものにしたい」(p.120)として,ジャンルとつながりがある小物によるディスプレイを勧めています。本の面陳(=上文に解説)によるアクセントの他,象徴的な小物として,古いカメラ・万年筆のボトルインク(社会・事件ジャンル),使わなくなった腕時計(歴史ジャンル)等を挙げています。
私も真似をして,叔父の形見でもある古いフィルムカメラを飾りました。
他のアドバイスとしては「背面は,板で覆われているよりも,空いているタイプの方がいい。風の通りが確保でき本が傷みにくい」(p.66)と。以前に私が注文して作った本棚では,湿気の逃げ道の考えが無く今では欠点と感じています。
『本棚にもルールがある ── ズバ抜けて頭がいい人はなぜ本棚にこだわるのか』
(成毛 眞,ダイヤモンド社,2014年)1400円
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● 30年サイクルでビルド&スクラップされる日本の家
本書の中に,びっくりするデータが紹介されています ── 国土交通省の示す住宅平均寿命の統計で,わずか26年の短期で解体されているのが日本の家です。
「築年数に左右されず,むしろ時間の経過とともに資産価値を高めている」欧米に対し,日本の家は「築年数で価値を下げ,30年で資産価値がゼロになってしまう」(p.158)哀れな現実です。
「今の日本の住宅業界と消費者が思っている『いい家』は,いい商品,いい製品かもしれないけど,本質的に『いい家』とは言えません。なぜなら時間の経過で価値が下がり,せいぜい一世代しか住むことができない」(p.3)と指摘するのは,作者・加藤伯欧氏,彼は栃木県で「ゆっくりとアンティークになる家をつくる」(p.55)挑戦をしているハウスビルダーの経営者でもあります。
● ちゃんとメンテナンスができる
加藤氏は,実質メンテナンスができない新建材の素材が「『メンテナンス・フリー』という一見良さそうな言葉に置き換えて宣伝・洗脳している」(p.59)世界的にみるとおかしい話を,次々に紹介しています。
日本の工業化された家は ──(1)木目調とかレンガ調とか,印刷や塗装でそれらしくしているサイディング仕様が90%以上(「続きを読む」参照),(2)石膏ボードを下地にした塗り壁風の塩化ビニールの壁紙,(3)木目がきれいに印刷された合板の床・・・(「続きを読む」参照),経年変化による味わいどころか,古くなるにつれて価値は下がっていく一方だと。
読者の私は,経費面から考えて(2)と(3)はどうにか許容ですが,どうしても(1)の外壁「○○調」となると受け入れができません。板の継ぎ目が,本物のレンガとの違いを象徴するサイディングボードの家並みを見るにつけ悲しくなります。「この家に住んでいる人は,気にならないのかな〜」と。
それと,窓の位置がアンバランスな外観の家も,気になって仕方ありません。この本では,間取りを先につくっているせいで,外側から窓を見ただけで,そこにリビングがあるとか浴室があるとかわかる『ネグリジェ・ハウス』(p.130)と酷評しています。またしても「この家に住んでいる人は,気にならないのかな〜」。
● ゆっくりとアンティークになる家をつくる
「人が『もう使えない,これは寿命だ』と言うとき,実はそこには『物理的寿命』『機能的寿命』『心理的寿命』という3つの要素」(p.28)の内「最終的に『モノの寿命』を決めるのは,『心理的寿命』」(p.90)と加藤氏は説いています。
加藤氏の会社(レジェンダリーホーム)で施工する家は,彼が南フランスを旅した時に魅了された家並みが範となっているようです ── このデザインは私の嗜好性とは随分と異なるのですが ──「素朴ながら今もって飽きの来ないデザイン」と「経年変化とともに味わいを増す素材」(p.38)の追究は,日本の工業化住宅には皆無でしょう。なぜなら「大きな企業が本当の意味で建て替えの必要のない建物をつくるはずもない」(p.51)とは,納得です。
日本の常識として「建物の価値は(時間の経過とともに)ゼロになってしまうと思っているので,余計なお金(メンテナンス)も掛けない」(p.177)慣習が,メンテナンス・フリーの新建材に踊らされ,ひいては家の心理的寿命を縮めていると分析しています。
加藤氏曰く「日本の場合,家を育て上げていくという感覚がきわめて希薄です」(p.166)と。
『間違いだらけの「日本」の家づくり』(加藤伯欧,ラピュータ,2014年)1500円(税別)
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● 「俺たちはシニアじゃない」
書名『60歳で家を建てる』──(リアル)書店で見かけた時,正直「爺(じじ)臭い本だな!」と思いました。そんな年齢で家を建ててどうするの! って。
頁をパラパラめくると,作者で建築家の湯山重行氏は「(やがて)立派なアラ還だ。昭和の時代なら定年退職して隠居生活に入る年齢ということだ,まいったな」(p.12)と書いています。「アラ還」とは「アラウンド還暦」だそうで60歳手前の世代を差すようです。私には無関係と思っていましたが,湯山氏同様,まさに私の世代を指すようです。でも,こうも続きます「ミーハーでフットワークが軽く,バブルを経験した新人類世代のシニア予備軍」(p.13)と。
1980年代始めに「新人類」と呼ばれた私たちも,今やアラ還です。
「理想は50代から計画する」「60歳から80歳にかけての20年が,『家を建てたからこそハッピーに過ごせた』というエピソードを残せる家にしたい」(p.34-35)と,同世代に向けての指南書が,当『60歳で家を建てる』。
● 「必要十分なコンパクトハウス」
TV番組『大改造!! 劇的ビフォーアフター』の建築家も務めた湯山氏は「『減築』という言葉を広めたパイオニアのひとりが,実は私である」(p.132)と自負しています。そう,つまり「不要となったモノと分れて,住まいごとコンパクトにすれば,軽やかに新しいことにチャレンジできる環境が自然と整う」(p.30),もう大きな家は要らない考え方です。
湯山氏は実際にローコストの平屋『60(ロクマル)ハウス』を設計図と供に企画・提唱しています(p.83-108,オプション編=p.109-130)。が,読者の私の興味は,そんな規格住宅の具現化ではなく,彼の「人生にはステージに応じたライフスタイルがあり,ステージごとにふさわしい家に住むことで,より満ちた生活が送れると考えている」哲学的な住宅論にありました。
●「60歳で家を建てると,人生が変わる」
湯山氏は「『断捨離』を通り越した『ミニマリスト』なるものが出現している」(p.153)と,今の住まい方トレンドを上手く表現しています。
私も「断捨離」(提唱者やましたひでこ氏の登録商標にもなっているようですが)までは理解できるものの「モノに振り回されず心の豊かさを追求し,無駄と思えるモノを極限にまで排除して生活」するミニマリストには,元来の蒐集癖もあり,なれそうにありません。目指してはいるのですが・・・。
作者の提唱する「適度に整理」され「必要となる道具が適所においてあり,その道具ひとつひとつが機能美に溢れ」「部屋を使いこなしているぞ感」(p.155-157)が味わえるコンパクトハウスには,この年齢になって,もの凄く憧れてきました。
湯山氏曰く「大企業では65歳が定年になりつつあり,60歳はまだまだ現役でバリバリ働ける年齢になった。還暦という節目が薄れつつ,ただの通過点になる感があるが,人生80年と考えれば,残りは20年。最終コーナーを回り始める大事な節目なのだ」(p.15)をリアルに感じつつ,また今,本気で,住宅の普請を画策している私です ── 勿論「小冒険のためのベース基地になるべく,人生の身の丈に合った『自分サイズの家』」(p.20)です。
愉しそうでしょう!
その大きな引き金になったのは,前々回に紹介 ── 『書庫を建てる ── 1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト』(blog No.185)であったのは言うまでもありません。
『60歳で家を建てる』(湯山重行,毎日新聞出版,2016年)1500円(税別)
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●「小さいことが,ポイント」の家
購入が2001年10月ですので,書棚に「積ん読」こと14年,やっと今の自分の波長と同期化したようで,この秋に読み終えたところです。ブログも超久しぶりの投稿です。
都庁の隣・新宿パークタワーに「リビングデザインセンターOZONE」なる住宅の博物館のようなショールームがあります。OZONEの展覧会『柱展』(1999年1〜2月)で再現されたのが,建築家・増沢 洵氏(1925〜1990年)が「最小限住居」を提唱し,実践した自邸(1952年)の「柱と梁」。
「本当にその状態は美しかった」(p.3)らしく,展覧会の担当者(キューレター)だった萩原 修氏が,会期中に「ぼくは良からぬことを考えてしまった」(p.3)ところからストーリーは始まります。
会期が終わったら捨てる運命の柱梁を引き取って,自分の家をつくってみよう,この家づくりストーリーが本書です。執筆当時(1999年),萩原氏37歳,かみさん37歳,子どもはスミレ8歳とアオイ6歳,家族4人の住まいです。
書名の「9坪」とは3間×3間(1間=約1.8m)の建坪を指し,具体的には1階が9坪,2階が6坪の床面積15坪(要は約50平方m)で「小さいことが,ポイント」(p.20)の家です。
● 増沢洵氏(1925〜1990)の自邸「最小限住居」
OZONEは住宅に関する興味深い企画展を開催しており,私も鑑賞の目的だけに上京したこともあります(「柱展」は見ていませんが)。『柱展』に増沢邸の柱と梁の再現展示が決定したのは会期前3か月だったようで,萩原氏は増沢 洵氏の住宅思想を咀嚼,オープニングレセプションの時に「まさか,自分が引き取ることになるとは,夢にも思わなかった」(p.73)ほど,展覧会の設営に没頭していた様子が文章から窺えます(この様子は第2章)。
柱梁を引き取ることになった萩原氏ですが,何と問題は『柱展』が会期を終えるまで「あと1ヵ月で土地を見つけなければ,何も始まらないのだ」(p.96)。そう,萩原氏は,土地が無いにも関わらず,再現・増沢邸の柱と梁,そして増沢氏の住宅思想に惚れ込んだのでした。
「土地はどうやって探したらいいのか。学校でも家でも,土地の探し方については教えてくれなかった」(p.100)── 確かに,そうですよね。契約に至るまでの悪戦苦闘ぶりと,初めて組む銀行の住宅ローンの体験談が第4章と5章です。「なんだか,とても疲れたが,いろいろ勉強にもなった」(p.148)。
● 生活と住まいのおりあい
当初「原形である増沢さんの自邸の良さを学びながら,生かしながら,ぼくら家族4人が住む家として,現代風に再現すればいのだ」(p.6)と思っていたようですが,設計の段階で改めて『生活と住まいのおりあい』(p.178)ってなんだろう? と多面的に分析した哲学が,本書の後半を占めています。
今でこそシンプルライフが謳われていますが,16年も前に「あってあたりまえのモノも,自分たちの生活に本当に必要かと疑ってみる必要があるのかもしれない」(p.196)と,とても先駆的な住宅哲学が書かれています(第6〜最終の9章)。
竣工は1999年10月,もう16年が経つのですね。出版(2000年)から15年を経ての私の今回の読書は,萩原氏の自邸ストーリーなだけに「今のスタイリングは?」をイメージしての時間でした。「お金もないせいもあるが,家を建てた残りの土地は,しばらく何もしないことにした」(p.245)当時の土だけの庭にも,木々が茂っていることでしょう。「積ん読」は時として,時空を超える事ができるのですね。
『9坪の家』(萩原 修,廣済堂,2000年)1400円(税別)
● 施主と建築家,それぞれが描く家づくりの物語
こんなにも臨場感に溢れ,私にとっては読み進めるのが楽しくて楽しくて仕方のない実話でした。
● 書庫と仏壇の家
施主は東大教授の松原隆一郎氏,神戸の旧家に在ったアルバム写真をきっかけに,これまで意にも介さなかった祖父の昭和初期からの足跡を辿るところから始まります。
住居に近い阿佐ヶ谷での格安中古住宅探し,相続した遺産の金額に加え銀行ローンを組んでの新築も考慮している中,半年後に見つけたのが「土地面積8坪(=28.7平方m,建蔽率80%,容積率300%)」の超狭小敷地。親交のあった建築家・堀部安嗣氏に,1万冊の本と仏壇を収める建築プランを依頼します。新たな建築ですから「この先9年ほどで定年を迎えてから後も,なんらかの仕事を続けなければならない」状況の松原先生,「自宅と研究室の本を整理し書庫の家に運び込んで,今後はそこに通い仕事をする」(p.120)人生が見えてきたそうです。「自宅は『暮らし』のためだけ」そして「ホテルのような仕事場」(p.121)とは,読者である私自身が超憧れるスペースの構想です。
私も,自宅とは別の狭小アトリエの施主になりたい! と真剣に考えるようになりました。それほどまでに影響を受けました。
● まさに書名買い(amazon)した本
先日,facebook上で知人の書き込み ──『本で床は抜けるのか』の本の題名を見て心配になり本の整理をした ── が目に入ってきました。私にも書名の印象が強烈で,すぐにamazonで書名買いしました。
「本で床は抜けるのか」── 言葉としては聞きます。が,ホント〜に抜けるのか? 作者・西牟田靖氏の職業はルポライター,自宅近くに資料本の保管用に,築50年と古い木造アパート(2万5000円/月)を借りた2012年3月から本編ストーリーは始まります。
木造アパートの「床が抜けてしまうかもしれない」(p.12)不安を抱えつつ,作者自身が気になり出した事そのものが,取材と作者自身の体験で綴られています。
最後の2014年春の出来事は,寧ろテーマそのものではなく,読者としては想定外の結末でした。作者は書かずにはいられなかったのかも? ── いや,逆に書名の意味が込められているのか? ここは実際の読書で辿ってください。
● 木造住宅は1平米あたりの積載荷重180キロ,RC住宅で300キロ
西牟田氏は「床が抜けてしまった人たちを探しにいく」(p.29)のですが,真相の多くは盛った話,あるいは地震や床の腐れなど本そのものの影響ではなさそうです。「いったいどれが本当なのだろうか」(p.33)。
本当の所は分からないまま,取材は『捨てる女』(blog No.178)の内澤旬子氏に。彼女は「いつか読めたらとか,書けたら書きたいなんて資料を持っているのがバカバカしくなってしまった」(p.66)と。さて,彼女が,この業の中で得たものと,失ったものは・・・。
とは言え,この聞き出しは,読者の私には,本に限らず雑多な資料類の「断捨離」の後押しにもなりました。
● で,本当に抜けたものは・・・
中盤からのテーマ「持ち主を亡くした本はどこへ行くのか」の章(p.80〜)以降は,実に物悲しい。著名な作家や学者ですら,没後は「たいていの蔵書は売り払われたりして散逸してしまう」(p.85)ほど,本の末路は幸せでないようです。「遺族にとって残された本はゴミでしかないんです」とは,メディアや文壇での信頼が厚い蔵書整理を請け負う古書店主の談(p.102)。
となると,本書の展開としては「自炊(=スキャンによる書籍の電子化)」のルポが,ド〜ンと登場しそうな様相ですが・・・そうでもありません。ここからが本書の後半戦となります。確かに,それ相応の理由で電子化に踏み切った取材先もあります。でも,書庫を作った人もいます。
書籍だけではなく,先祖の仏壇,家系の写真,実家の樹木をアーカイブスとしても移動させた「狭小物件のコンクリート円形書庫」を建設した大学教授 ── 自分の今と,先祖の居場所を「書庫建物」とした実例紹介は,現代の相続問題の解決の一つとしてリアリティが在り有りでした。
で,「本で床は抜けるのか」の真相は不明に終わるのですが,実は,本当に抜けたものは・・・。
『本で床は抜けるのか』(西牟田 靖,本の雑誌社,2015年)税別1600円
●「片づけとは,あらゆることに片をつけること」(p.21)
かなり若く,でも今や時の人・こんまり(近藤麻理恵)氏の『毎日がときめく片づけの魔法』は ── 反発する同世代も多いようですが ── 目下マイブームが「断捨離」中の私にとって,かなりの福音書でした。作者とは親子ほどの年齢差がありますから,私としては文章の所々に少女趣味を感じてしまうのは仕方が無い,そこはご愛嬌。
「断捨離」へのネックは,モノへの未練。
元祖やましたひでこ氏の「断捨離」術では,捨てる事のできなかったモノも,超シンプルな「こんまり基準」のミッション「『触ったときにときめくかどうか』で判断する」(p.93)は,それはそれは特効薬でした。
読者の私には蒐集癖もありモノは増えるばかり,一方で収納スペースの在り方に解決策に見いだそうとする垂直思考,ありがちな「美しい収納」系の書籍を眺めるだけでした。冷静に考えると,モノが増え続けるのですから,美しい収納など完遂はないのですが・・・。
とはいえ「生活感のないホテルの部屋」への憧れは人一倍あり,現実とのギャップが悩みどころでした。
● 読者(の私)マンションを購入
収納庫としてマンションを買った同僚の話も聞きます。でも,私は「片付け祭り」(p.16)の実践の舞台として,勤務先の宿舎からの引越しを考えました。購入したのは近くの中古マンション,贅肉を取り去り,これから「いっしょに暮らすモノ」(p.98)吟味は,週末の愉しみとなっています。壁紙を変えたり,造り付けの本棚などリフォームも同時進行です。
さて「ときめかないモノを手放す」(p.3)業の始まりです。今年の1月から初め,引っ越し予定の来月までがタイムリミットです。教科書は,この『毎日がときめく片付けの魔法』です。インテリア本のような写真は皆無で,ほとんど文章中心の啓発書です。
「収納の達人にならないでください。なぜなら,モノをため込みがちになるから。収納は,極限までシンプルに,考えてください」(p.100)。
私自身にとって,居心地のいい空間ができつつあります。
●「息苦しくなっているモノはありませんか?」(p.58)
昨年末に福岡市に所有していた一戸建てを思い切って売却しました。荷物は,新購入のマンションに送ったのですが,数十箱に及ぶ段ボールから出てくる出てくる(コンマリ曰く)「『あれ,こんなの持っていたっけ? 忘れてた』というようなモノ」(p.61)。今までの私なら「いつか役に立つかもしれない」基準での整理でしたが,ここからは「触ったときにときめくかどうか」で判断,結局ほとんどは「お役目が終了したときが処分のしどき」(p.174)「もうお役目終了の申し出をしている」(p.59)と相成りました。
これはコンマリ流には無いのですが,私の蒐集癖が成した思い出のガラクタは,写真に撮ってから捨てるのをマイルールにしました。ほんの10年ほど前と違って,写真がフィルムでなく,お金もかからないデジタルなのが,とても有り難い。
『毎日がときめく片づけの魔法』(近藤麻理恵,サンマーク出版,2014年)税別1600円
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● 知の巨人・梅棹忠夫氏をリスペクト
本書『知的生産の技術とセンス』は,先達のリスペクト版として,この秋に出たばかりです ──「まだインターネットも普及していなかった時代に,来るべき情報革命の時代を予見し,個人の情報との付き合い方を解説した本がありました。民族学者・梅棹忠夫(うめさお ただお)先生による大ベストセラーとなった『知的生産の技術』(岩波新書)です」(p.3)。
リスペクトされている原書の舞台は1969年,今のブログやfacebookのようなソーシャルメディアを利用し個人が情報を発信する場など,夢物語の時です。それどころか,オフィスにもコピー機やFAXが見られなかった時代の出版ですが,今でも岩波新書の中でベストセラーを誇っています。
なぜでしょうか・・・
● 道具は変わっても本質は変わらない
「梅棹先生の提唱した『知的生産の技術』は,情報の集め方,記録の仕方,そしてアウトプットの仕方など,私たちも今日から実践できる」(p.5)情報の整理に関するバイブルの位置づけです。
「道具は変わっても本質は変わらない」(p.76)精神を受け継ぎながら,時代にそぐわなくなったデジタル情報整理と,ソーシャルメディアによるアウトプットの活動促進を補ったのが本書で,サブタイトルに「知の巨人・梅棹忠夫に学ぶ情報活用術」と付いた『知的生産の技術とセンス』です。
とは言え,私は,バイブルの方のアナログ時代に慣れた世代(やっとワープロが一般に普及しだした1980年代の社会人組)(それでも「新人類」と揶揄された世代)です。本書で紹介のデジタル情報整理ツールEvernoteなどを駆使している訳でもなく「ツールは変わるが,考え方は変わらない」(p.178)の『考え方は変わらない』の方を地味に歩んでいます。
本書では「発見の手帳」が一つのキーワードになっていますが,私は手書きによるノートが以前よりも増えている状況です。
● バイブル『知的生産の技術』の続編として
作者の堀 正岳・まつもとあつし両氏とも40歳台前半,読み進めるとデジタル情報に慣れ親しんでいる20歳台〜30歳台の方を対象にしているようです。出版元も当世代向けの会社です。
昨今,デジタル環境で育った周囲の大学生たち,いきなりPC在りきで物事を進めているように見受けます。これは「道具」に過ぎず,やはり重要さを説きたいのは「知的生産の技術」の素養です。
デジタル対応の部分は当『知的生産の技術とセンス』が補うのを知った上で,先ずはバイブル『知的生産の技術』を基礎編として読むと,堀・まつもと両氏の伝えたかった本質が見えてくると思います。
個人の知的生産(アウトプット)が,facebookやYoutubeやブログで容易になった現今,次のエールが印象的です ──「知的インプットまでは得意だ・・・でもアウトプットとなると尻込みをしてしまうという人がほとんどだと思いますが,あえて自分の考えや制作物を人目にさらすことで得られる,この一周めぐる間隔を味わっていただければと思います」(p.226)。
作者のお一人・堀氏は,手書きノートの味わいを突き詰めた『モレスキン「伝説のノート」活用術』(blog No.150)を著した方でもあります。
『知的生産の技術とセンス』(堀 正岳・まつもとあつし,マイナビ新書,2014年)1080円
『知的生産の技術』(梅棹忠夫,岩波新書,1969年)780円